2008年2月12日火曜日

掲示板「梁山泊」過去ログデータ 61

続続・著作権について(完) 投稿者:樹々の緑 投稿日:2006年 4月16日(日)02時00分45秒
 そこで、当面している近代デジタルライブラリーからのダウンロードと引用についてですが、

 まず、ダウンロードして閲覧するだけでなく保存すれば、それが「複製」に該ることは間違いないでしょう。その「保存」形態として、一旦自分のパソコンのハードディスクにファイルとして保存せず、いきなり自分の個人ホームページにアップロードすることも、ホームページの契約をしている他のサーバーに保存することですから、やはり「複製」に該ると見てよいと思います。

 この場合、一旦個人のパソコンにダウンロードして保存しているだけであれば、「私的使用目的での複製」の範囲に含まれると考えられます。

 ただ、その複製主体が誰なのかが問題です。

 この点について、国立国会図書館側がすでに「近代デジタルライブラリー」に収録してダウンロード可能な状態に置いていること自体が、著作権法31条2号の定める「図書館資料の保存のため必要がある場合」か、又は同3号の定める「他の図書館等の求めに応じ、絶版その他これに準ずる理由により一般に入手することが困難な図書館資料の複製物を提供する場合」に該当する「著作物の複製」なのだと考えれば(そして、それが多分正当でしょうが…)、その複製物をさらにダウンロードして「再複製」することがいかなる根拠で可能なのか、よく分らないのです。
 ただ、著作権法31条2号の趣旨から考えると、すでに紙の媒体では保存に支障が生じており、そのため図書館に赴いた利用者から原本の直接の閲覧を求められても、当然にその原本ではなく同条号による「複製物」(古くはマイクロフィルムや、今回のようなデジタルデータの形で)を閲覧に提供せざるをえないことになるはずです。
 近代デジタルライブラリー所蔵書籍の物理的状態から、このような提供方法しかとれないというならば、少なくとも、利用者側が、その「貸与を受けて、自分が主体となって複製を行う」ことは、「私的使用目的」による複製として認められねばなりません(著作権法30条1項)。
 また、「物理的状態から、貸与は駄目で閲覧のみ許可する」というのであれば、図書館側が主体となって、「調査研究目的」を持った利用者に対して、その申し出により「公表された著作物の一部分(発行後相当期間を経過した定期刊行物に掲載された個個の著作物にあつては、その全部)の複製物を一人につき一部提供する」ことが認められねばならないはずです(著作権法31条1号)。

 何れにしても、当面しているケースを直接に規律する規定は、私の知る限り存在しないような気がしますが、理論的に考えると、上記のような思考になるはずでしょう。
 そして、そう考えると、議論の資料として検討するために、公開文字データをダウンロードして自己のパソコンのハードディスクに保存する行為は、再複製ではあるが、「調査研究目的」に基づく複製であり、かつ、著作権法31条2号に起因して直接の複製が不可能なケースであった場合として、少なくとも著作権法31条1号の要件の下では認められうるのではないか、と考えられるのです。

 これに対して、いきなり自己の個人ホームページに、近代デジタルライブラリーに公開されているデータをアップロードする行為は問題です。それも、自分が契約している、国立国会図書館とは別のサーバーに保存する行為ですから、「複製」に該ることは間違いありません。しかもこの複製は、ホームページが自動公衆送信(著作権法2条1項7の2号、9の4号)を行う装置を利用したものであり、それへのアップロードが「送信可能化」(著作権法2条1項9の5号イ)に該ると考えられるので、とても「私的使用」の範囲とはいえません。例えば、次のような指摘があります。

>  なお,インターネットなどにより入手した著作物をダウンロード,プリン
> トアウトする場合は,私的使用のための複製となり得るが,それらを個人の
> ホームページにアップロードする行為はこれに当たらない(21条および23条
> 参照)。(角田政芳・辰巳直彦『知的財産法 第2版』有斐閣アルマ2003年
> 4月刊 p282)

 この理解によれば、一旦ダウンロードすることは「私的使用目的」範囲の複製として適法だが、いきなり個人ホームページにアップロードすることは許されない、となります。
 そしてさらに、近代デジタルライブラリーの公開データの場合は、前述のように「再複製」の問題があるわけです。そのため、「私的使用目的」を理由に正当化できることはないのではないか、ということです。

 とすると、一旦自分のパソコンにダウンロードして保存する場合にも、前々投稿で述べたように、「利用者からの申し出」と「調査研究の用に供する目的」とを確認するため、あらかじめ国立国会図書館に許諾を得る必要がある、ということになるのかと思います。
 これは、実態に必ずしも適合しない、窮屈な制度だと思います。というのは、これでは、自分の著作物の中での「引用」さえ、その前提行為のところで手間がかかりすぎるからです。田村・前掲書が指摘していた、「複製禁止権が足枷となって調査,研究のさらなる進展を妨げることのないよう」という要請が、かなり制限を受けるからです。

 しかし、われわれ一般人としては、とりあえず、国立国会図書館のコメント通りにする以外にはないでしょうね。
 今回は、随分勉強させられました。


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続・著作権について 投稿者:樹々の緑 投稿日:2006年 4月15日(土)14時52分57秒
 前の投稿は、夜中に、考え・つっかえしながら書いたので、長くて難解になりました。その後気づいた点を含めて、再述しますので、こちらを参照して下さい。

 いま改めて考えてみると、要するに、①情報の取得の段階での問題と、②情報の利用の段階での問題とに分けた上で、さらに、③利用目的という観点を加えて、考える必要があるのだと思います。

 すなわち、情報の取得段階では、「複製」が問題となります。
 そして、「複製」は、
a.「私的使用目的」である限り、原則自由になしうるが、ただ、「公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器(複製の機能を有し、これに関する装置の全部又は主要な部分が自動化されている機器をいう。)を用いて複製する場合」は許されない、とされています(著作権法30条1項本文及び1号)。但し、この点にも、さらに例外があり、著作権法附則第5条の2では、「当分の間」「専ら文書又は図画の複製に供する」自動複製機器は、30条1項1号にいう「自動複製機器」に含まれないとされています(田村善之『著作権法概説』第2版p201)。
 したがって、コンビニのコピー機でコピーすることも、私的使用目的であれば可能だということになります。

b.そして、この「私的使用目的」で複製する原本(これも複製物であることは前投稿で述べました)を、複製の主体がどのような形で所持しているかについては、とくに規定はありません。
 したがって、自己所蔵本である必要性はなく、図書館から借りてきた本であってもよいことになるはずです。田村善之・前掲書pp202~203でも、次のような記述があります。

>  公表された著作物は,営利を目的とせず,料金(38条1項括弧書きに定義)
> を受けない場合には,その複製物の貸与により公衆に提供することができ
> る(38条4項)。図書館等による貸出しを貸与権創設後も是認するための
> 規定である。貸与に対する公衆の需要を著作権者の利益に優先させ,もっ
> て著作物の利用の便宜を図る趣旨であると解される。

>  私的使用目的は複製者にあれば足りる。公衆への貸与や送信が大量の私
> 的複製を誘発したとしても,複製するか否かが公衆の自由意思に委ねられ
> ている以上,複製の主体はあくまで公衆であり(東京地判平成12.5.16判
> タ1057号221頁[スターデジオⅡ]),その私的複製が違法に転じるわけで
> はないから,

 さらに、著作権法31条1項1号は、図書館等の利用者の求めに応じ、図書館等が主体となって(すなわち、前条のように複製物を利用する私人自身が主体となるのではなく)非営利事業として、複製物を求める利用者一人につき一部に限り、公表著作物の一部の複製をすることができる、としているのです。これは、あくまで、図書館等が複製主体となる場合の規定です(前掲・田村p233)。
 この結果として、図書館等の利用者は複製物を取得できますが、この場合は、「調査研究目的」ではない「娯楽目的」による複製物の取得はできません。そのためには、利用者自らが図書の貸与を受けて、「私的使用目的」で複製しなければならない、ということになります。
 この制度について田村・前掲書p232では、「複製禁止権が足枷となって調査,研究のさらなる進展を妨げることのないよう」にした趣旨だと説明しています。すなわち、ここでは、調査研究のための利用が予定されている、と解することができるでしょう。

 こうした情報の取得の是認は、「私的使用目的」「調査研究目的」の範囲内である限り、という限定があったわけです。この点、田村・前掲書では、

>  30条1項による著作権の制限の恩恵を享受しうるためには,複製が「個
> 人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用するこ
> とを目的とする場合」(=私的使用目的)であることが必要である。莫大
> な数の複製が行われることを認めてしまうと,何のために著作権を設けた
> のか分からなくなってしまうので,歯止めをかけたのである。

とのべており、この「私的使用目的」が、主に複製の数の制限を狙ったものであることを指摘しています。

 この「私的使用目的」に、自分の個人的な調査研究目的が含まれていることは、多分争いがないと思います(「娯楽目的」が除かれている分だけ狭くなる)。

 そして、取得した情報の利用の段階については、前投稿でも示した著作権法32条1項が、公正な慣行に従って「引用」することを是認しているのです。その「引用」が、自己の著作物中において、引用された著作物の「複製」利用を意味することは、当然に予定されており、その趣旨は、「図書館等における複製」を規定した著作権法31条1項1号においても、前述のとおり窺えると思います。


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著作権について 投稿者:樹々の緑 投稿日:2006年 4月15日(土)01時07分29秒   編集済
 近代デジタルライブラリーの管理者である国立国会図書館のウェブ案内の中で、次のような二通りの案内(下記のようにA案内とB案内と略記します)があるため、両者の関係がよく分らないのだと思います。私にも判然としないところがあります。

> 2. 著作権について (-以下、A案内と略記)
>  近代デジタルライブラリーの著作権の帰属先は、以下のa~dのように
> なります。
>  著作権の保護期間内にある資料を著作権法上認められる範囲(私的使
> 用のための複製など)を超えて使用する場合は、当該資料の著作権者の
> 許諾を得る必要があります。
>
> a.収録されている各資料:各資料の著作権者
> b.a.を除く、バナー、ロゴ、トップページの画像等の個々の著作物:国
> 立国会図書館
> c.ホームページの画面の編集著作権:国立国会図書館
> d.データベースの編集著作権:国立国会図書館


> 国立国会図書館ウェブサイト内のコンテンツの利用について (-B案内と略記)

>  以下の目的による利用を希望する場合は、あらかじめ国立国会図書館
> の許諾を得てください。なお、有償でのネットワークによる利用は、御
> 遠慮願います。
>
> ・データをその全体又は一部について、媒体の如何を問わず原形若しく
> は原形に近い形で複製し、又は加工若しくはそれに類似した利用をす
> る場合。
> ・データをその全体又は一部について、利用し、又は加工し出版(CD
> -ROM等の電子媒体によるものを含む。)する場合。
> ・媒体の如何を問わず、本ウェブサイトに掲載しているコンテンツの全
> 体又は一部について転載する場合。

 上記A案内は、そこに示されているとおり、「著作権の保護期間内にある資料を著作権法上認められる範囲(私的使用のための複製など)を超えて使用する場合」に、「許諾を得る必要があ」る「著作権者」は誰かを示したものだと思います。
 したがって、先の投稿で私が示した、「公正な引用」などの、著作権法上認められる範囲を超えない使用についての記述ではなく、また、直接に利用の制限を示したものでもないと、結論づけることができるでしょう。

 ではB案内でいう「ウェブサイト内のコンテンツの利用」とは、どういうことか。
 ここでは、A案内・括弧書き内でいわれている「私的使用のための複製」も、B案内においては後述のように規制対象となると解されるので、問題は深刻です。

 ここからは完全な私見に過ぎないので、直接、国立国会図書館にメールで照会した方がよいと思いますが、一応私の理解を述べてみます。

 問題とされる客体(対象)は、「データ」または「コンテンツ」の「全体又は一部」です。

 そして、これら客体のうち、「データの全体又は一部」に対して、「あらかじめ国会図書館の許諾を得る」形で規制されている行為は、
・媒体の如何を問わず、「原形若しくは原形に近い形で複製すること」、あるいは
 「加工若しくはそれに類似した利用をすること」であり、また、
・「利用すること」、又は「加工し出版(電子媒体出版を含む)すること」です。

 これに対して、「コンテンツの全体又は一部」については、規制される行為は「転載」だけです。

 ところで、「データ」の定義が手許の『日経パソコン用語辞典2004』にもないため、はっきりしないのですが、非常に深い階層のアセンブリ言語やプログラミング言語によるものだけを指すのではなく、日常的にいわれる「文字データ(テキストデータ)」類まで指していると考えるべきだと思います。但し、それは、画面上の表現形式でいえば、単一の表現形式による情報のみを指しているように、ここでは解されます。つまり、「文字データ」なら文字データだけ、「画像データ」なら画像データだけ、それぞれ分けて考える、ということです。
 これに対して、「コンテンツ」は、画像やリンク、文字データを、作成者の一定の制作意図に従って混合した(配列したりデザインしたりした)ものであり、画面上で見えている一つのページに近いものを指している、と思われます。

 このように理解できるのは、規制される行為が前者では「複製」「加工」「それに類する利用」、「利用」「加工し出版する」と広汎であるのに対して、後者では「転載」だけが規制されているからです。

 仮にこのような理解が本筋を外していないとした上で、さらに考えます。

 なぜ、データについてこのような広汎な規制を行う必要があるかといえば、それは、紙の媒体での図書館の本の利用を考えて比較してみると推測がつきます。

 図書館における本のコピー(=複製)については、「図書館等の利用者の求めに応じ、その調査研究の用に供するために、公表された著作物の一部分(発行後相当期間を経過した定期刊行物に掲載された個個の著作物にあつては、その全部)の複製物を一人につき一部提供する」ことができるとされています(著作権法31条1号)。

 ここに「複製」とは、「印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再製すること」です(著作権法2条1項15号)。インターネット上に公表されている著作物ファイルを、ダウンロードして自分のパソコンのハードディスクに収めたり、直接プリントアウトしたり、他のサーバー上に電磁的に記録させることも含むと解されます。

 先日私は、われわれの議論目的における「引用」については、公正な慣行に従って①明瞭区別性、②附従性、③著作者人格権の非侵害性、の3要件を充たしてすれば、行えると述べました(著作権法32条)。この「引用」とその直前の条文で規制されている「複製」とはどう違うかが問題だと思います。

 ここで「引用」とは、原本である刊行物の記載(=著作物と呼ぶ。これ自体が実は、著作物の複製物なのであって、オリジナル原稿だけが著作物なのですが…)を、自己の原稿の中に区別しながら(しかも出所を適切に示して-著作権法48条1項1号)取り入れることです。「引用」中で原本の記載を改変することは、自分の原稿における語尾を整えるため括弧書き等を加えて語尾のみを変えることくらいしか、許されないはずです。
 「複製」は、手段方法を問わない(∵「その他の方法により」。したがって、自分の蔵書を見ながら手書で書き写す行為も「複製」に該る)有形的再製ですから、自分の学習用の覚書としてノートに書き写す行為も「複製」になるわけです。そこで、それがなぜ許容されうるのかが問題になります。
 結論的にそれは、「私的使用のための」複製だから許されます(著作権法30条1項本文)。このような行為までいちいち制限すると、個人の行動の自由が著しく制限される反面、そのような私的複製を著作権保護の対象としても、権利処理の費用も高くつきチェックも困難であることによるとされています(田村善之『著作権法概説 第2版』 有斐閣2001年11月刊p198)。

 また、先に述べた図書館における複製も、「図書館等の利用者の求めに応じ、その調査研究の用に供するために」認められています。これは、個人の行動の自由保障というよりは、著作物の文化的価値をより広く公衆の利用に供するという公益的理由による著作権制限だとされています(田村・前掲書p232、半田正夫『著作権法概説 第10版』p189 一粒社2001年11月刊等)。

 そして、結論的には、この自己学習のための私的複製や、調査研究のための図書館資料からの複製の結果を踏まえて、自分自身の著作物(=ここではインターネット上の纏まった書込み~罵倒の応酬の類ではなく)の中で、公正な慣行に従い、出所を明示して「引用」することまでが、法的に許されていると考えてよいと思うのです。なぜなら、われわれが自己の著作物の中に「引用」する際にも、引用元の著作物を複製することは物理的に避けられないからです。「自分自身の著作物の中で」という点は大事です。以前の投稿で、金さんに「引用がご自分のいかなる主張を裏付けるものとして、引用された文章のどこを、どのように理解したことによって指摘できるのかを明示してほしい」と述べたのも、そのような事情を考慮していました。

 ここで、文章の場合に引用した文字列が、引用された文字列から著しく離れてしまったら、それは「引用」にはなりえません。単に自分の文章になるだけです。にもかかわらず明瞭に「引用」として区別して表記されていたら、「誤引用」になるわけで、著作者人格権の侵害になるのだと思います。著者が言ってもいないことを言っているかのように自分の文章の中で表示することになるからです。

 これに対して、明瞭に区別せずに「引用」のつもり(=主観的意図)で書いても、地の文章としか判断できないわけですから、内容から考えて「盗作」「盗用」の問題が生じ、これが「複製」(=いわゆるパクリ)に該るのかどうかが問題にされることになると思います。許されている私的複製の範囲(自分のノートに書くこと等)を超えてしまえば、著作権侵害となりえます。

 要するに、このような逸脱形態でない限り、正当な「引用」として利用が保護されうる、ということです。

 では戻って、なぜ国立国会図書館がB案内のような記述をしているのかを考えると、紙の媒体でのコピーに比較して考えると、よく分ります。
 すなわち、「近代デジタルライブラリー」サイトに公開されている書籍の文字データを、画像データ形式からテキストデータ形式に変換して、ダウンロードして保存する行為は、紙の本の「図書館における複製」に類する行為だと思われます。したがって、著作権法31条1号の要件該当性を明確にするためには、「利用者からの申し出」の存在を明確にした上で、「調査研究目的である」ことの担保(といっても電子メール等における誓約くらいしかできないでしょうが…)をとる必要があります。国立国会図書館が「あらかじめ許諾を得るように」といっているのは、そのためだと思われるのです。
 もっとも、本当は、近代デジタルライブラリーに画像データを収録すること自体が著作権法31条2号が定める「複写」ではないかと思われ、そうすると、これをダウンロードする行為は「再複写」であることになります。私はよく知りませんが、そういう理由で、近代デジタルライブラリーに収録されている書籍は、すでに著作権保護期間(書籍においては著作者の死後50年)が過ぎているもののみではないかと思います。
 そうすれば、ダウンロード行為自体が、最初の「複写」になるだろうからです。自信はありませんが…。

 いままで、私自身のオリジナルな書込みの中における「引用」は、すべて私自身の蔵書を、ワープロソフト上で自らキーボードを叩いて「書き写した」ものでした。したがって、私の書込み中の引用は、私的利用の結果を自己の著作物の中に「引用」と明示して複製したものになります。

 これに対して、金さんの場合、以前に「スキャナと文字認識ソフトを用いて」といっておられたようなので、その対象が近代デジタルライブラリーで公開されている書籍であった場合、あらかじめ、国立国会図書館に許諾を得る必要が生じるかも知れません。ネタ元が金さんの蔵書であれば、前記3要件を充たし、かつ引用元を明示している限り、問題はないかと思います。


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検索サイトとカラオケ 投稿者:金 国雄 投稿日:2006年 4月14日(金)22時16分27秒   編集済
 日本語で韓国サイトを検索する場合、次のサイト「enjoy Korea」http://www.enjoykorea.jp/
が私が今のところ知るものとしては便利と思います。ただし完璧には翻訳されな
いという難点がありますが、あくまでも簡略な翻訳として。それを前提としての
使い方によっては簡易的に比較などもできるように思われます。

 勿論、韓国・朝鮮語をご存知でまた、ハングルキーボードをお持ちの方は直接、
「韓国ヤフー」http://kr.yahoo.com/ などで検索されればとも思います。

 *前提としてハングルフォントが必要です。詳しくは「コントロールパネル」
  の「言語のオプション」を参照のほどを。

 また話題は変わりますが、カラオケ機器に関して。

 日本でのカラオケ機器に関しては代表的なものとしてパナソニックほか他にも
あります。http://www.tantan.co.jp/mc/visual/handykaraoke/

 毎年、古くからの日本の友人とのカラオケ新年会もあり、また脱北者の方々とも
歌う機会もありますが現在まで使用する機器は全て日本歌謡の機器(日本語歌詞)
です。パナソニックの場合、ネット等で有料でダウンロードできる関係、韓国・朝
鮮歌謡もあるものと思いますが?

 今回、連れ合いが購入してきたものは「ED 8000」という韓国のET社
の製品で韓国・朝鮮の歌、5000曲が収録されているものです。http://www.enter-tech.com:8080/entjpn/product/ed8000.jsp

 つい先日まで1000曲が最大であったと思いますが、技術進歩と価格低下も
あり韓国で335,000w、現在のレートでは日本円で4万円ほどでしょうか、購入
してきました。

 日本の100V用のアダプターもついている関係、そのまま日本で使うことが
できます。ただし歌詞はハングルです。

 今月末、脱北者の方々と使用する予定です。

 <参考文献>

韓国歌謡史―1895-1945
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794951906/ref=pd_rhf_p_1/250-9289456-2689006


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韓国の姓 投稿者:金 国雄 投稿日:2006年 4月13日(木)21時29分10秒
 『韓国の姓名字典』 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4384000561/qid=1144458798/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-9289456-2689006

 によれば、85年度調査(経済企画院)では、25の「姓」が増加したとありその中、
次の岡田(강전)、小峰(소봉)、長谷(장곡)、網切(망절)、橋(교)、辻(십)
の「姓」が日本からの国籍変更者(帰化)の「姓」と紹介されています。


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著作権 投稿者:金 国雄 投稿日:2006年 4月13日(木)21時04分31秒
 「近代デジタルライブラリー」での文献資料(史料)調査で、ときになぜか
「著作権で保護されているため、ご覧になれません。」との結果が出て、「利
用上の注意」http://kindai.ndl.go.jp/attention.html など読んでも良くわ
からない点などあります。

 *PEG2000表示にすると閲覧可能であったりします

 ネット検索で次のサイトがあることを知り、皆さんの参考にもなるものと思
い紹介します。

社団法人著作権情報センター
http://www.cric.or.jp/


 また、

帝国議会会議録検索システム
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/

 の運用も始まったようです。


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トンセンとともに 投稿者:金 国雄 投稿日:2006年 4月12日(水)22時50分49秒
 やっと6年ぶりに再会(季節の折々にメールや電話での会話のみ)した日本人の
トンセンとさきほど食事をし、いまはカラオケ(連れ合いが韓国で機器を購入)に
興じています。

 今日は、ほとんど韓国・朝鮮語での会話の世界です。カラオケを含め。



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Re: 教科書特殊指定廃止と「慰安婦」の項の書換え意見・教基法改悪 投稿者:金 国雄 投稿日:2006年 4月12日(水)18時42分33秒
 樹々の緑さん、こんばんは。

 今日は連れ合いも無事帰宅しましたが、ネットで出会った古い知人の来宅が今の
ところ少しばかり遅れている関係、その合間にヤフーニュースで検索を行いました。

 本当に戦前に回帰するごとく「愛国心」との言葉が踊っているようです。

 内容に関して私も時間を見つけ目を通して行こうと思っています。しかし、今日
のところは皆さんへのニュースの紹介までですが悪しからず。


検索語:教育基本法
http://nsearch.yahoo.co.jp/bin/search?p=%B6%B5%B0%E9%B4%F0%CB%DC%CB%A1&st=n


 それでは。
  金 国雄 拝


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嵐の中で 投稿者:金 国雄 投稿日:2006年 4月11日(火)23時47分42秒   編集済
 今晩の中部国際空港(セントレア)は、強い風と雨で航空機の到着もキャンセル
され他の空港に着陸を余儀なくされた航空機も続出したものと思われます。

 私も先ほど帰宅したばかりですが、このような天候のため無駄骨を折りましたが、
その後の電話で連絡がとれて、やっといま一息入れているのが実情です。まずは一
安心。

 空港への連絡橋は、車が横転するのではないかとの恐怖心がたつほどの強風、ち
ょっとした台風並みの強風。そのため航空機の着陸はできないだろうと思って到着
ゲートに行きましたが案の定、他の空港に着陸です。

 往復3時間ほどの雨の中の運転と空港での情報待ちなどで少しばかり疲れ、また
予定も狂い、そして明日は知人の来訪とも重なり明日も忙しい一日になりそうです。


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補足:教基法改悪 投稿者:樹々の緑 投稿日:2006年 4月11日(火)03時31分59秒
 明日早いせいか、久しぶりにしっかり休息したせいか、夜中に目が覚めてしまいました。
 他の掲示板ですでに述べたことの繰返しですが、この掲示板に在日の有志の方もアクセスしていることを考えて、ここに補足的に書き込みます。

 教育基本法は、私の前投稿で述べたとおり、「日本国憲法の精神に則り」という文言を前文に持っている、希有な法律です。そのこともあって、「準憲法的性格」を持っているとさえ言われています。
 その前文(法律の各条文の前に置かれる文章で、法律と一体をなす規範的効力を持つもの)の全文を、ここに引用します。

>  われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設
> して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理
> 想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
>  われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期
> するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育
> を普及徹底しなければならない。
>  ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本
> の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

 この前文でまず語られている「決意」に着目して下さい。「日本国憲法を確定し」たことと、「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した」こととは、同列に置かれています。敗戦後の日本国民にとって、憲法の確定は、何よりもまず、このことを意味していたのです。「民主的で文化的な国家」が、他国や他民族を権力でねじ伏せて支配することを容認できるはずもありません。それは、当然に前提されていたと解釈して構わないでしょう。
 しかし同時に、この「理想の実現」は、「われら」の大部分を占める当時の日本国民だけで達成できることではなく、「新しい」世代がこの「日本国憲法の精神」を継承することによって、最終的に「実現」されるべきものであり、そのために「この理想の実現は、根本において教育の力にま」たなければならない、と教基法はいっているのです。
 ここでどうしても日本人の一人として指摘しておきたいことは、この「根本において教育の力にまつ」という態度は、決して、受動的で他人任せの態度ではない、ということです。
 それは、最高刑死刑を以て断罪される治安維持法体制の下で、日中十五年戦争に突入した後の1937年に刊行された日本少国民文庫の最終巻、山本有三・吉野源三郎(実際は吉野が執筆)著「君たちはどう生きるか」(現・岩波文庫に所収)において、この願いを戦後的将来を担う当時の少国民(ティーンエージャー)に託そうと、日本の民衆の良心に基づく必死の努力が続けられていたからです。

 現在の改変案で、この「日本国憲法の精神に則り」の部分が削除されようとしていることの具体的意味は、自明だと思います。それは、教育基本法前文の趣旨自体の抹殺です。

 次に、第1条「教育の目的」についてはどうか。その条文全文を引用します。

> 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真
> 理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精
> 神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 前投稿で引用した、土屋元規教授の連載記事によれば、2004年6月16日発表の「与党検討会中間報告」では、上の条文中「平和的な国家及び社会の形成者」と「真理と正義」「個人の価値」「自主的精神」を削除する、とあります。残るのは、「人格の完成」という教育一般に妥当する目的と、「勤労と責任を重んじる心身ともに健康な国民の育成」ということだけです。「勤労と責任を重んじる」ということの意味さえ、これでは違ってきてしまいます。
 そしてその代りに、まだ協議中ではありますが、「国を愛する心」「国を大切にする気持ち」の育成が、目的として入れられようとしているのです。
 要するに、「お上のいうことに従って元気で黙々と働け」ということでしょう。

 前投稿でも結論だけ書きましたが、第10条第1項の改変は、この条文の趣旨を正反対に変えてしまうものです。まず、現行条文から引用して考えましょう。

> 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つ
> て行われるべきものである。

 一読しただけでは、この条文の意味は曖昧模糊としており自明とは言えません。

 しかしこの条文が意味していることは、金さんの「大祭祝日及び国民記念日」投稿でも指摘されているように、戦前の日本における教育が、絶対主義的天皇制権力(国家権力とくに行政権力)にとって都合のよい人間の育成を目指した権力的支配作用(行政作用)に過ぎなかったことを反省し、教育に対する国家権力(特に行政権力)の「不当な支配」を排除する趣旨なのです。
 そこでいわれる「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って」というのは、こどもの教育に直接にあたる教師、その民主的で文化的な成長を望む保護者、その育成の成果に影響を受けるすべての国民が、国家権力とくに行政権力からの不当な支配を排除されて、教育を受ける権利の主体であり「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた」国民へと育成されるべきこども自身に対して、直接に責任を負って(こども自身や保護者・国民からの負託と期待に応えるべく)教育作用が行われるべきだということに他なりません。

 こう考えると、前投稿で示したような改変案、すなわち「教育は」を「教育行政は」に置き換えることが、たった2文字の追加であっても、条文の趣旨を没却するほどの180度の転換であることは、明白だと思います。改変後の条文を、再度示してみましょう。

> 教育行政は、不当な支配に服することなく、国・地方公共団体の相互の役
> 割分担と連帯協力のもとに行われる。

 これでは、こども自身や保護者・国民からなされる批判(=不当な支配)に対して、「教育行政」が保護されるべきであり、教育作用は、「国・地方公共団体の役割分担と連帯協力のもとに行われる」支配作用になってしまいます。教基法が、わざわざ1条文を設けて厳格に排除しようとした、「国家権力特に行政権力からの不当な支配」を避ける保障は、まったくなくなってしまいます。

 これが、今後半国会でぜひとも成立させられようとしている、教育基本法の改変なのです。その意図は、戦慄を覚えるほどではないでしょうか。